昭和50年01月04日 朝の御理解
御理解 第68節
「神参りをするに、雨が降るから風が吹くからえらいと思うてはならぬ。その辛抱こそ、身に徳を受ける修行じゃ。いかに有難そうに心経やお祓いをあげても、心に真がなければ神にうそを言うも同然じゃ。拍手も無理に大きな音をさせるにはおよばぬ。小さい音でも神には聞こえる。拝むにも、大声をしたり節を付けたりせんでも、人にものを言うとおりに拝め。」
今日は六十八節の其処の所を聞いて頂こうと思うのです。辛抱こそ身に徳を受ける修行と。おかげを受けなければならんから、朝参りをする。もうそれは降っても照っても、行の様にお参りをする。という信心では折角の修行が勿体ない。其処で本当の言うなら信心が解らせて貰って、言うなら真の信心が解らせて頂く事の為に、降ってもそれこそ照っても、辛抱し抜くという信心になりますと、信心の楽しみ、信心の喜びが頂ける。是はおかげの喜びではない。おかげの喜びと言うのは、必ず消えるのです。
だから何処までも信心の喜び。折角朝参りをする折角雨が降るから、ね。風が吹くから、偉いと思うてはならぬと仰るから。そこを例えば降ろうが、吹こうが辛抱し抜かせて頂く程しの修行をするのですから、ね。本当に信心が有難うなり楽しゅうなり、それにおかげは、もう是は要らんというても付いて来るのですから、ね。信心が解れば信心が身に付いてくれば、所がどうしてもその、おかげおかげの方に段々傾くですね。
昨日久留米の佐田さん達が、ご夫婦とそれから、明石の方におられるご兄弟のご夫婦。私が何時も四時半に下がりますのに、昨日はどうした事か十分ばっかり長く此処に居った。そして別に用もなかったんですけども、事務所の方に行ったら、向こうの方から四人連れで参って見えておりますから。又此処へ座ってお取次ぎをさせて頂いたんですけど。まぁ色々と話をさせて頂いたり、聞かせて頂いたりして、まぁ佐田さん辺りのご信心には、ま何時の場合でもほとほと感心致します。
もう本当に成程こういう生き方になればね。もう本当に苦労が無いと思うですね。明石の方から今もう大変なそれこそ、此の年末から事業をなさっておられますから、もう大変難儀な所をもう本当にお話を聞くと、本当に奇跡と言わなければおれない程しのおかげを受けて、わざわざあんな遠方から、お礼参拝をされる。是からはまぁ毎月月参りだけはさせて頂きたいと言う程しに、あのまぁ言うておられる訳ですけれども。
「先生、本当の信心のおかげを頂くこつというのは、どう言うところにあるのでしょうか」と、言う様なましつもんがありました。それから又昨日の朝の御祈念にも参っておられましたから、昨日朝あの私はここで皆さんに聞いて頂いた様に、矢張りさとりを開く事ですよと。例えばこう言う様な場合、私は昨日高橋さんから、そのお伺いがあったんです。あるまぁ言うなら難儀な問題。その問題に処して行くとには、どういう心掛けになったら良いでしょうかと。
何時もならば私はそれに、何時もヒントを与えます。成程その親先生が、あぁ言われておりましたから、今日は大変おかげを頂いたと。是は何時もそう言われます。けどもそれはね、悟りの様であって悟りじゃないです。人から教えて貰うたのですから。だから翻然として、自分の中から生まれて来る物じゃなからなければ、本当の悟りではない。ね。だからそれがね、今朝から頂く御理解の様な、昨日の事からね。其処は一つ高橋さん一つ本気でどうある事が本当なのか、翻然とした物が頂ける。
一つ練ってご覧なさいというて、私はヒントを与えなかった。ね。ですから信心の私は悟りと言う物はあのね、もうそれこそなんと申しますかね。笹の葉の動きを見て翻然と悟るとか。ね。蓮の花の開く音を聞いて、もうそれこそ開眼するとかと言う風に、昔から言われます様に、その事をどうして、どうしてとこう思い続ける事です。どうしたならば是が解るだろうかと。
どうしたならばとそれはもう本当に、場合によってはそれこそ流行歌の歌の文句の中からでも、赤ちゃんの泣き声の中からでも翻然としたものが生まれて来る。そこに至りませんとね。信心が所謂翻然とした物にならないです。ね。ただこうやって皆さんが御理解を聞いて下さる、その御理解を聞いて下さりながら、はぁそうだったとそれが本当なのですだからそのお伺いする事も、その時その時例えば苦しゅうてたまらん。
そういう時にはどういう気持ちにならせて頂いたらと言う様な時には、お伺いでもすると、ヒントを与えて貰うと、何か今まで是が、耳が詰まる様であったものが、すきっとするでしょう。ね。又それを一日心の中に頂き続けると、おかげを受けるでしょう。だけどそれも有難いけれども、矢張り翻然とした物が取れなければいけません。もう直ぐ下がりましたから、丁度私は今、四時半下がると、必ず母の部屋に参ります。ですからあの、母の部屋に参りました、あのお茶でも上げたり。
そしたらもうご飯の準備が出来ましたから、もうお正月のまぁ、印などあげながら、お話をする事です。お話をしながら私加西さんと申しますが、加西さんに話した事でしたけれどね。あの少しお神酒が廻って一杯機嫌になりましたから、ね。もう本当にですねあのお神酒を頂いて、あのいっぱい機嫌の気持ちになると言う事、信心によってそれがどんな様な場合にあってもです。まぁ言うならあぁこりゃこりゃで、手どん叩くごたる気持ちになると言う事が、おかげを頂くこつ合いなんですよ。ね。
丁度ほんならこうしてお神酒を頂いて、もうそれこそ、色んな心の憂さも何処へか行ってしまう。もう本当に心に手を叩きたいごたる心持ち。まぁ例えていうならばですねというて、話した事ですけれども。例えば佐田さんのお宅の、倉庫が丸焼けになった時、いち早く奥さんがお届けに見えました。私は裏に居りました。襖を開けて入って見えたらもう、笑われる事笑われる事。「何ごつがあったつですか」ち、私が言いますと。「それが、あーたもう、先生」と言うてからもう、笑われますから。
「あの、どういう事、何ですか」ち言うたら、「倉庫が丸焼けになりました」ち。ね。もう本当に例えばです、そういうそれは、私はその日一日は何か嬉しゅうして嬉しゅうして、明くる日になりましたら、少し本当に相すまん事であった。沢山な物を焼いて、灰にしてしまってという心になりましたけれども、その瞬間からその日だけはです。もうそれこそ、母が恵美子さん、あんまり笑いよると火事見舞いに来なさった方達が、どうかあげん、こげな大変な事が起こったから。
あそこの奥さんどうかなってどん御座らんじゃろかち言うて、たまがりなさるよ。笑うとだけは止めなさいというて、母が申しましたと言われるくらいに、もう心の中から湧いて来るんです。どんなに寒かろうが、暑かろうがです。例えばお神酒ども頂いておる、頂いて酔うておる時の気分と言うのは、そうです。ね。それをねほんなら、それが直ぐ出来るとは思われないです。ね。
もうはっとそれこそ、顔色が変わる様にあるだろうと。ご主人もその時の事を、昨日話しておられましたが、いわば周囲の物が慌て回っとったけども、自分は全然慌てる心も起こらなかったと言われる。ね。ですから日頃です、例えばおかげおかげで、おかげに終始しておったら、そんな物は生まれませんです。信心が血になり肉になり、神様のおかげをおかげと本当に解っておる。
それは自分の都合良うなる事だけがおかげではなくて、むしろです言うならば、都合良ういかん思う様にならん時こそ、神様の願いが成就しておる時だと言う様な事を、体験に体験を積んで、積んでおらなければ、とても一杯機嫌の様な心と言う物は、生まれて来ないです。加西さん信心の本当のコツと言うのは、どう言う時でも、お神酒を頂いてそれこそ、鼻歌の一つでも出るごたる心持、その心持がおかげなんです。さぁお父さんどう致しましょうかと、例えば家内がいうて来てもです。
おかげじゃがと言えれる信心なんです。ね。それにはね例えばおかげを追う信心に終始しておったんではです、ね。そういうおかげが頂けるとは思われません。それこそ雨が降るから、風が吹くから、ね。七年前の寒修行が始まった。一つ今度の寒修行は一家中で、いっちょお参りしようかと言うて、あの時分は五十日間でしたからね。五十日間の寒修行にお参りをし続けたら、もう、続けておる内にです。もう止められなくなって、今日まで続いておるのが佐田さんとこのご信心です。ね。
如何に信心が有難うなり、楽しゅうなって来られたかと言う事が解るでしょうが。ね。今度の寒修行だけは、いっちょ頑張ろう。唯おかげば頂かんならんからと言った様な事では、続くもんじゃないです。ね。始めの間は今度の寒修行には一つ、一家中でお参りしようじゃんのというて、家族中でお参りをさせて頂いて、五十日間過ぎた時には、もう、既にその寒修行を止められなくなった。止めたら気色の悪いというのじゃなくてです、信心が身に付いて来るのが有難うなって来た。
こういう生き方で行くならです、ね。もう是からはもうおかげに、おかげになって行きますし、おかげがおかげの花が、おかげの実になって、しかも大きくなって行くばっかりだ。堂々巡りと言う事がない。必ずおかげが進展します。ね。愈々六日から寒の入りです。寒修行が始まります。ね。だからその寒修行、折角寒修行と言う事は、何の修行かと言うと、おかげを頂く修行じゃなくてです。信心を頂く、解らせて貰う修行じゃなからにゃいかんです。ね。
昨日佐田さんのご主人が、やっぱ話しておられましたけれども、今アメリカから弟さんがお医者になっておられます。ご夫婦で、今こちらに帰って来ておられます。お医者さんですから、矢張り中々神様でも、そう言う風にまぁ、学者は学者らしい風に神様を頂かれる訳です。それで例えば、丁度丸二年前に、アメリカの方へ行かれて、もう一家中が挙げて、信心しておる事もまぁその間に、お父さんが亡くなられたり、改式をなさったりしておられます。ですからまぁ自分の里である。
その佐田さんのお宅が、もう大変な変わり方をしておるけれどもです。事実の上にね一家中の者が、人間の上にもまぁ言うなら、お商売の上にもおかげをはっきり示し現しておられるから、言う事が無い。東京に羽田に着かれた時に、あちらにおられる、あのお姉さんがおられますが、もう久留米の方は、此の頃はもう、金光様金光様で、もうそれこそ一家中の者が、まぁ言うならのぼせとると。
それこそ永年続いた仏教の、それこそ念仏何とかと言われるくらいに、先代当たりは仏教の熱心な信心で、もう毎月一家中、親類の者が集まって、お坊さんを呼んで、言うなら、此処で言う共励会の様な事がなされる程しの、熱心な仏教信者であったのを知っておられますもんですから、ね。金光教に改式して変わっておる事を、大変不平らしゅうその言われた。ね。けれども、その弟さんが言われるのに、僕がもしあの父の葬式の時に、会式のその事を聞いておったらです。
その姉達と喧嘩しておったかも知れんち。ね。是程しの信心を頂、是程うたのおかげを受けておる、ね。それは仏教の時には仏教でおかげを頂いたからじゃろうけれども、現在の仏教ではそれこそ、佐田家が倒産してしまう様な結果になる様な者しかないのだから。今久留米の所謂、佐田一家が金光教に改式するのに、何が不思議があるかと、というて兄弟達が文句言うたら、ひょっとしたら、僕は喧嘩しておったかも知れんと言う位にです。是は信心が解っておられる訳じゃないけれども。
その信心人となりと、形の上に現れて来ておるおかげと言う物を見て、合点しておられる訳なんです。やっぱおかげ受けなきゃいけませんですね。そしてです先日の元旦祭に、一緒におかげを頂かれて、その佐田さんのお宅で行くと、お婆ちゃんを始め、皆んなでそのおかげ、おかげもうとにかく、奇跡的なおかげが頂かれる。家もこんなおかげを頂いてと、そのおかげおかげと、お母さんあんた達が言うとが、大体間違うとるとこう言われるそうです。ね。
私は今日は、合楽の先生のお説教を聞かせて頂いて、あのまぁ勿論、あんまり長いお説教じゃなかったけれどもです。もう初めから最後まで、空暗記しておられたそうですよ。本気で頂かれた訳ですね。そして合楽の先生のお話を頂いておるとご利益とか、おかげと言う事は、全然仰らなかったじゃろうがのち。あれが本当の信心ばいち。お母さんあんた段、おかげおかげばっかり言うちからと、こう言われたそうです。そういやほんに、私はあの元旦祭のおっ説教の時には。
もう今合楽でおかげ話をするなら、もうどれをして良いか解らん位ですからね、奇跡の連続ですから。けれども確かにそういうおかげ話はしませんでした。とにかく初めから、ずーっと私がお説教のそれをです、又その佐田さん達にされたそうです。そしてその中に一言でも、ほんならご利益の事は話されなかった。所謂信心を身に付けて行くと言う事を言われた。ね。いうならばです生きとし生けるもの、ね。あらゆるなべてにです、言うならば神様の恩恵を悟らせる。ね。
ありとしあらゆるもの、生きとし生けるもの。それが天地の親神様の御恩恵によるものだと解らせる事が宗教なんだという意味の事を話された。ね。まして人間と言う物はです。ね。神様が心の中に宿って御座る。ね。言うなら神性、神の性と言う物がある。そういう神性をです、神の子としての自覚を作らせる事が宗教なんだと。ね。我神の子であるという自覚。ありとしあらゆるもの、ね。
生きとし生きれるもの。生きるもの。それが、全部、天地金乃神様の御恩恵によるものだという事が、分かることが、また教える事が宗教だと言う訳なんです。だからおかげてんなんてんち、ご利益の事言うちゃ低級になるち言う訳です。ところがほんなら、金光様のご信心はです、そう言うところが段々、信心によって解って来る、ね。生きとし生けるもの、あるとしあらゆるものがです。
神様の御恩恵によるものだと、まして人間と言うものは、神のいわば氏子として、所謂神のわけ御霊と言う物を、心の中に宿しておる。その神性を愈々発揮して行く事が宗教であり、そこを悟らせるのが宗教だと言われる訳なんです。だからご利益てんなんてんな、どげんでん良かち言う訳です。ところが金光様のご信心は、それが分かって来ると、おかげをやるのを嫌というても、付いて来るのですから矢張り、おかげおかげも言わなければおられなくなって来る訳なんです。ね。
同じご兄弟でもほんなら加西さんなら、加西さんの場合です、もうどうにも出来ない此処に一杯の水が欲しい。一碗のご飯が食べたいと言う時にです。ね。唯信心だけを言うとったっちゃ出来ん。もう本当に水が欲しいなら水を。ご飯が欲しいならおにぎりの一つも与えられてこそ、ね。だから結局まぁ特にまぁ学者、ね。の学問を少しした人なんかは、皆そういう意味の事を言います。
おかげを言うし、宗教は低級だというけれどもです。それはもう、ね。そういう生きたおかげを現し得る宗教が、如何に少なくなったかと言う事実を物語るものであってです。本当言うたら、本当に喉が渇いてたまらんものには、水の一杯も与える、腹の減ってる者には、おにぎりの一つも、先に与えられる宗教でなからなければ、ほんなもんじゃない。ね。そして今その佐田さんの弟さんが仰る様なです、ね。
宗教とはこう言うもんだと、と言う事に成って来る訳で御座います。だからねまぁ佐田さんの、その弟さんのお医者さんなんかは、まだね自分が幸せ一杯で、何に不自由する事もないから、それが言うておれるんだと言う事です。ね。言うなら理想的な信心をいうておられる訳です。けれども金光様のご信心は、その理想的な信心が身に付いたらです。嫌というても、ね。病気はしない、貧乏はしないというおかげを頂かれるんです。まさかの場合には、奇跡のおかげも受けられるんです。
ほんならそれが一度同じご兄弟で、加西さん達の場合なんかはです。信心を幾ら語った所でです。今求めておられるものが、与えられなければ、神様は付いて来られんのです。ね。今朝もご夫婦で、今あそこにお参りになっておられますが、ね。本当に難儀な問題では、もうそげな難儀な問題があるなら一遍、遠い近いを言わずにね。合楽にお参りして来なさいと、と言うて一二ヶ月前でしたか、ね。お参りして見えたんです。ね。其処で言わば、合楽の信心が解られた。
解られたというが何とはなしにですね。もうこういう有難い神様が、こらおかげをお受けになるですよ。信心を頂いて聞かせて貰うて今迄の生き方、自分の我力と言う物が如何にもう愈々、自分の無力と言う物が解ったと言うだけでもです。夫婦の者が一昼夜掛かられて帰られる自動車の中で、それこそもうこんなに有難い事はなかったと言うて帰ったと。それこそハンドルを持つ手に、もうぼろぼろ涙がこぼれて仕様がなかったと。
こういう有難い神様があって、こういう有難いお話を頂いて、もう生まれて初めての事である。そういう感動を持って帰られて、それからの又難儀に取り組まれた訳ですけれども、それが言うならば、見事におかげを頂いておる訳です。だからほんなら、是からもう是で良い。是からも受けなければならんから、この調子を忘れずに、まぁコツといならば、まぁ姉さんの恵美子さんが、ね。
火事の時にもう、笑いが止まらなかったと言われる様な言うなら、一杯機嫌のあの機嫌が、信心によって心の中に開けて来る様なおかげを頂く事が、信心のいうならば、進めて行く焦点であり、こつなんですよと。ね。さぁ問題が起きた。うろちょろしとる様な事では、おかげにならん。神様がどういうおかげを下さろうとしておるのであろうかと思うただけでも、笑いが止まらん位な信心。それにはね、信心を目指してからでなからなきゃ、そういうものは生まれて来ないて。ね。
確かに宗教とはです、ね。特に金光様のご信心は今申します生きとし生けるもの、ありとしあらゆるものの中に御恩恵、神様のおかげでと言う事になって来る。ましてや人間はです、神の氏子としての自覚をね。其処でですなら、神の自覚と言った様な物がね、もうその何というでしょうか。どうでしょう皆さん、自分の思うておる事が、神様の思い御座るとと思える様な。自分の行動、自分の動きがです。もう神様の動きと思われる様な体験が生まれて来たら、素晴らしいです。ね。
例えばなら私が、ね。わざわざ此処を下がってから、事務所の方へ行くと行った様な事はないのに、十分ばっかり遅れておって、行ったおかげで、あの佐田さん達のお取次ぎをさせて頂く事が出来た。私が下がっておったら、もう向こうに若先生が座っておりますから、若先生のお取次ぎを頂いて帰られたかも知れません。そういう時に、私の動きと云う物は神様の動きだなと思うんです。
昨日ご飯を夕食を終わらせて頂いてです。ね。お話も一きり付きましたから、まぁもう皆さんにも、また日田まで行かねばならんと言うから、私がもうお帰りになる様な雰囲気を作ったんです。はぁそれで皆が立つ。そらもう例えば佐田さん辺りなんかは、信心話しよったら、キリがないですからね。ですからこら何時まで掛かるやら分からんと思うたから、私がちょっとそういう雰囲気を作ったんです。だからそこではっとその、気付かれた様に立ち上がられました。
立ち上がられると同時に、若先生が東京のお兄さんを連れて入って来ました。もう佐田さん見事ねというてから立ちました。ね。自分の思うたり、行うたりした事が神ながらな、是が神様の思いであろうか、神様の動きと言うのは、こんなだろうか。成程自分の心の中に、神様が宿って御座る印だと言う様なね。私は日々を過ごさせて頂けれるおかげです。それにはね信心を目指す。本気でほんなら本心の玉を研く、日々の改まりが第一といった様な所に焦点を置いて、信心の稽古をさせて貰わなければです。
そう言う物が生まれて来ないです。ね。愈々寒修行が始まります。だから今度の寒修行にはいっちょ、こげなおかげば頂かんならんけんでではなくてです。もう一つ本気で、信心を身に付ける為の信心修行であると言う事になったら、それこそ佐田さんじゃないけれども、その信心が身に付いて来ることが有難うして、もう止められんと言う事になって来ると同時に、なら佐田さん達が、現しておられる様なおかげにもです、繋がる事が出来るのです。ね。折角信心所謂、寒修行が始まります。ですから、ね。
今度の寒修行で本当の言うなら翻然とした悟りが開けて来る様な、ね。成程人間はです、ね。神様の氏子としての、理屈で解るのじゃない、自分の心の中の神様の動きと言う物がです。ね。そこにはっきり出て来る、解って来る様なおかげをね目指しての信心。本当に信心に打ち込ませて頂く時にです、初めて生きとし生けるものありとしあらゆるものの中に神性を見る事が出来る。御恩恵を御恩恵と感ずる事が出来る。ね。
そういう信心を身に付けて、おかげを受けるのですから、そのおかげは又願い以上の、思い以上のおかげの展開と言う事は勿論です。ね。どうでも一つ為にはね、今日頂ます、ね。雨が降るから、風が吹くからえらいと思うてはならぬ、その辛抱こそ身に徳を受けるとこう仰っておられます。ね。例えばほんなら如何に雨風の所を突いて参ってまいりましても、おかして参って参りましても、それが唯ご利益と言う事だけの信心であったら、身に徳が付くと言う様な事にはなりませんです。
それはもう本当に、ね。雨風を突いてでもお参りをしてお願いをして、一心を立てて願うからそん時の願いが成就する事は、成就しましょうけれども身に当を受けるという修行にはならんです。身に徳を受ける修行というのは何処迄もです信心が焦点、ね。信心が血に肉になって行く事が楽しゅう有難うなって来るという、其処にですね雨が降っても、風が吹いても、ね。其処にむしろ喜びが湧く程しの信心修行が出来るのです。今度の寒修行には一つ、そう言う所に焦点を置いて取り組まれたらどうでしょうかね。
どうぞ。